昭和51年12月1日 月次祭



・・・どういうことだったか、確かに研修が終わって、四時の御祈念を終わってからだったが、どういうことだっただろうかと思って、しきりに思いますけれども、思いませんでしたが、上野が姿を見たら、ポッと思い出させて頂いた。ああ、そうそう。今日は四時の御祈念を終わった後に、上野先生がこういうようなお届けを致しました、ということでございました。
 それは昨日、それも四時の御祈念を終わった後、私が下がらせて頂きました後に、若先生が奉仕をいたします。あるところに、どうにも出来ない問題が上野先生あって、若先生の御取次を頂いたと言うのです。それで、その、若先生が古い手帳を御結界の引き出しから出して、それをこう開いて見るところに、それによって磨け、と。その手帳に書いてあったそうです。だから上野先生、その、あなたが今問題にしておるその問題、それによって、神様が磨けて言いよんなさるとですよ。
 これはもう、何年も前に親先生から頂いた御教えをメモしてあるのだけれども、そのことはこれなんですよ、と言うて、それによって磨け、と。そこには問題が無くなりますね。おかげで信心を一段進めることが出けるというお礼こそあれ、その問題は問題に無くなって来るわけです。
 もう先生、その一言で本当おかげ頂きましたち言って、今日、何とおかげ頂いた、何か喜びのことがあった。ああ、そうだったの、素晴らしい。御教えていうものは素晴らしいことだね、と。人間の心を救い、そして次に問題が問題で無くなって、自分の心が飛躍したところにおられるということは素晴らしいことだね、と。そのことを、しきりに思い出そうとするけれども、思い出さなかった。上野先生の顔を見て、それを思い出させて頂いたんですけれども。そしてその後に、こういうお話を致しましたそうでございます。
 この頃から、私のいわゆる若先生の家内であります良子の父が、東京の方からだいぶ前、しばらく来ておりました。いわゆる、東京ですし屋を営んでおられます。同じすし屋でも、少しその、格のあるおすし屋さんです。天皇陛下にお寿司を握って差し上げるというような、天皇陛下と皇后陛下を両方において、真中に自分がこう写真を写られるというようなお寿司屋さんなんです。
 しかし、そんなのは貴方、見たことも聞いたこともない。こっち天皇陛下、皇后陛下の真中に自分がこうやって、して自分は紋付袴で意義を正してあるかと言うと、何かちゃんちゃん帽子のごたっとを被ってから、いわゆるお寿司を握るそのスタイルで写っておられるんです。
 まあ、そういう大変変わった方なんですけれども、昨日、若先生がその、いわゆる家内の父のことについて話した。この頃からこちらへ来とりますと、もう、どこへ行くでも若先生がお供をして行かにゃなりません。これはもう、今はじまったことではないけれども、父と一緒に歩いておると、もう、父は何を見ても何を買っても、ね、どういうことをしておっても、お寿司と結び付けるて言うんです。
 もう、これには感心した。家の親先生と同じこと。テレビを見られようが、相撲見られようが、お芝居を見られようが、必ずそれが信心に繋がっておるんだということなんです。世の中には、いわば玄人、いわゆるプロがおります。すし屋もどれだけ、なら、日本中におるか分かりません。金光様の信者もどれだけおるか分からない、金光様の先生も沢山おります。
 やはり、プロはプロでおりますけれども、同じプロでもね、このくらい自分が寿司のことに凝り固まっておれれるというところに、銀座の(二葉)があるのであり、このくらいに固まっておるというところに、合楽の教会があるんだよ、と言うて上野先生に話したと言うのです。言うならば、寝ても覚めても金光様であり、寝てもさめてもお寿司のことばあっかりしか考えてないと言うのです。ね。
 私はせっかく信心をさせて頂くならね、その信心が趣味や道楽でするのじゃないのです。それこそ、あの世この世、この世でも助からなければならないが、あの世では、ね、永劫と言われておる、永劫の助かりを求めてのものであります。昨日は、昨日一昨日でした。久留米の井上さんところのお母さんの帰幽日でございました。いわゆる、仏教で言うお立ち日なんです。
 それで、久留米に井上さん、それからお姉さんの井上勝美さんおられますから、色々とお供え物を、それこそ甘な辛なを取り揃えて、御霊様へご挨拶をしてくれということでございました。ちょうど私が研修、それから御取次をさせて頂いておりましたから、四時の御祈念でいつも御神前に出るんですけれども、(十時分?)遅れておるところへやって見えた。
 いやあ、本当、御霊様の働きだねって、私はやっぱり(一枚を?)待たせてござるですね。それから、お祭りにかからせて頂いた。お祭りと言うても、まあ、四時の御祈念に併せてのことでございました。時に、私が神様から頂きますことが、ね、この人差し指にダイヤの指輪と思われる、ダイヤプラチナ、宝石はダイヤと、まあ、思われるような指輪をこの人差し指から、こう脱いで、そして、この真中のたか高い指にこう挿し返るところを頂いたんです。
 はあ、だいたい指輪というのは、これは自分も楽しいでしょうね、あんなダイヤの指輪やら挟める。けれども、やはり、これは人に見せるもの、これは人差し指にしてあったのは、人に見せるもの。ね。それを、この中心であるところのたか高い指に、こう挿し返るということは、言うならば、芯である。ね。この手の真中である。芯はどこかと言うと、心である、魂である。ね。
 熱心に叔母さん、御信心を、まあ、なさっておられました。ね。ですから、信心のことが段々有り難く分かっておられる。私は先日から、そのお婆さんのことで、ああ、どういう事からでしたでしょうか。神戸の方へ行っておられます、まあ、久留米の井上さんの姉さんに当たります方が、ね、子宮癌の通知があった。病院に入院する、子宮癌だと言うのです。
 それでもう、ご兄弟みんなビックリして、その、ここにお願いにみえました。そして、このことは母にども言うたら、どんなに心配するか分かりませんから、私は母には申しませんから、どうぞということであったのでございますけれども、私がそれを御取次させて頂いて、こう申しました。誰が祈るとか、誰が願うと言うけれども、親がこのことを願うほど切実なものはない。
 子が親を思い、親が子を思うという思いほど素晴らしい交流はないのだ。ね。信心がないならいざ知らずだけれども、お宅のおばあちゃんには信心がある。娘の子宮癌と聞いて、それはビックリするかも知れないけれども、それによって、おばあちゃんの信心も進み、それによって切実な、誰が願ったよりも切実な思いでお祈りが出けるということは、おかげ頂く元になるのだから、おばあちゃんにも言わなきゃいけないよと言うて申しました。帰って話した明くる朝から、朝参りをはじめました。
 もう、やんがて八十というお婆さん。で、熱心に朝参りをして参りまして、おかげで無事におかげを頂いたという話です。そのことの話を、私はこの頃から十日ぐらい前に、14~15日前になるかも知れませんけれども、朝の御理解の中に、その話をしておったのをテープにとって、四国におられるお姉さんに送った。テープとおかげの泉色々、それから、こちらから頂いとる私の写真を、この頃、皆さんが求めておられる。それはそうと、あのお写真で大変おかげ頂きよりますよ皆さん、どうでしょうか。
 まあた、こげな顔ですからね、実物をいつも見よりなさいますからね、けれども、写真で見るとよけい神々しかごたる、有り難い。この頃からね、福岡の川上さんのお導きで参ってみえられる方が、長く合楽の信心を致しております。ところがもう、川上さんがあんまり熱心に言われるもんじゃけん、もう、て言いよったのが、この頃はフッとしたことから信心になり、もう、この頃は自分の方がなるほど、川上さんが有り難い、有り難いと言われるが、本当に有り難いということが分かられた。
 そこで、今度は自分のそれを姉さんにやったけれども、姉さんはそんなこと、金光様のこの字も言う方ではなかったらしい。ね。ところがその、写真を頂いて帰ったんです。はあ、この方の信心、この方がなさりよる、拝みござる神様ならち、拝んでみろうかという気になって、この頃から参って見えた。参ってみて、ある深刻なお願いをなさいましたけれども、もう、それこそここでおかげを頂く時には分かりますですね。もう、顔色が変わって来るんです。やはり、あの写真が(   )おかげを頂くというようなね、おかげを頂いておった。この頃おかげの泉の、あのご本を繰り返し繰り返し読んで、おかげを頂いておる。
 私も今日から出ておりますのを、もう何回、あの(扉?)に書いた。少なくとも十回は読みなさいという風に言っとるから、私も必ず十回以上は読むでしょう。私が話したこと、それが活字になっておる。ね。それを読み返し読み返しさせて頂いて、私自身がおかげを頂くから、皆もおかげを頂くことでしょうけれども。ね。それをやはり、ね、もう、お話はいつも頂いておるから、というような人は、さあ、買うては行っても、読まないでそのまま、こう重ねて置いてあるといったようなことはないでしょうか、勿体無い。ね。
 あの井上さんの場合でもそうです。こちらから、その、そのお母さんの話が出てる話を送った。もう、大変に感動して、今、家中で二回通りもテープを頂いておかげを頂いた、と言うておるところへ、まあ、子宮癌であったという、神戸の妹さんから四国の方へ電話がかかって来た。
 もう、今こうこうで、こうだった。今日はちょうど、お母さんの立ち日、帰幽日にも当たるから、どうぞそちらから遥拝をしてくれと言うて、言われた。それから久留米の方にまた電話がかかって来た。今日はお母さんの帰幽日。こちらから祖先賛詞をあげさせてもらうから、電話の受話器をこちらへ向けてくれ、と。
 それで、電話上、それこそ祖先賛詞をして、お母さんに御取次、お供えをしてくれと言うて、いうことであったというほどしの信心を頂いておられる。ね。言うならば、人見せの信心じゃない、本当な信心が出けておった。しかも、魂の世界に入らせて頂いて、最近の合楽の信心の変わり様に、もう、それこそビックリするほどしに自分の心が飛躍して行っておると言う。
 私どもはこの肉体を持っておりますから、ね、痛いもありゃ痒いもありますから、ね、こういう今の合楽の信心と言うならばです、ね、もう、完璧の域に入った。しかも、難しいことではない、今までして来た信心を基本にして、それを土台にして、今の合楽で言われておるところの実意丁寧神信心。いわゆる、成そうと思えば、子供でも成せるようなことを疎かにして来ておったということを、ね、大事にして行こうという信心を毎朝、御霊が御霊ながらに、魂がこれを浴びるように頂いておる。
 そこに、ダイヤのいうように、ね、いわゆる、光るものを自分のこの中心に挿し返るほどしのおかげを頂いておるということである。御霊が、ね、肉体がないから悟りが早いわけ。けれども御霊もね、それを例えば信心がないのは、もうそれこそ真っ暗闇の中にある魂がです、もう、それが当たり前と思うて、言うことを聞こうとも動こうともしない御霊もあることはもちろんです。
 いかにこちらで信心を頂いて、信心の言うなら一歩一歩前進させてもろうて行くということが、ね、日勝り月勝りのおかげにも繋がると同時に、自分がいよいよ極楽に安住することの出けれる、信心の究極のところを極めた御霊というのは素晴らしい。皆さんがこうやって、最近の信心を頂いて、本当素晴らしい。なるほど、これが真の信心だ、これがいよいよ本当の信心であると言うて分かっておられるように、御霊は御霊なりに、より以上に分かって行っておるということであります。
 これから考えましても分からせて頂くことは、けっきょくは魂の問題であるということです。私どもの魂が光り輝きしなければいけないということなんです。ね。先日から朝の御祈念に、晃という字を、日の光と書きますね。日光の日ですね。それに光と書きますと晃という字。私はそのことを頂いて、もちろん、日は天地の親神様のことであろう、光というのは、銘々が信心によって頂くところの喜びのということだろうと、こう。ね。その、私どもが信心によるその喜びと、神様との喜びとが一つになって行く、交流する道をつくって行く。ここに私どもが、ね、神様と私どもと仲良うする信心とか、ね、いわゆる合楽。
 神様と共に喜び合い、楽しみ合うて行けれる世界という風に申します。ところが、私が無学ですから、その晃という字の意味が分からない。それで、御祈念を終わり、御理解を聞いてもらった後に、すぐ高橋さんが字引を引いて下さいました。それには、もう、本当に何とこういうことが書いてあったです。
 日と光の音律とありました。ね。輝く光と、それに、また説明がしてございました。日と光の音律なんです、リズムなんです。ね。信心をさせて頂くなら、自分の心が神様に向かう。向かうと、神様との調和が取れてくる、調子が合うて来る。そこから生まれてくるのが、有り難いなあ。しかも、どっから湧いて来るか分からん有り難いなあ、という心が湧いて来るんです。ね。
 そういう時に、神様と日と光の音律がぴったり合って、調子が合っておる時です。イライラする、モヤモヤする、心配で不安でたまらん時には、その音律が乱れておる時ですから、心を神様にいよいよ向けて、自分の心の中にいわば安定の心、言うなら平和な心、喜びの心が頂けれるところまで、私どもが、まっ、足踏み状態、先に進むことはいらんから、そのことは置いておいて、ご神前に出てみることです。
 そのことは置いて、合楽にお参りをしてみる事です。それでもいかんならば、いよいよ本気で御用の一つも一生懸命させて頂いておる内に、フッと取り戻すことが出来る。それが、心の喜びだ、信心させて頂く者の喜び。その喜びと天地の親神様との、いわば心と心が合うた時を晃と言うのであると言うのです。ね。
 神と私どもの、いわば調子がとれておるかどうか、と。いよいよ今月は、もういよいよ今年最後の年に入ります。三日は親教会の記念祭。この前のお月次祭に誰も、私が百名申し込んどる、だから、申し込み手がないからね、私があの、最近言われる、やろうと思えば成そうと思えば子供でも出けるようなことをあなた方は疎かにしておる。どうも、合楽にはこういう傾向があっていけない、という風なお話を聞いてもらいましたら、帰りに皆さんがみんな申し込んで頂いて、もう、八十何名の申し込みがあった。
 まあ、後10~20名、おそらく、まあ、それを超えることでございましょう。いよいよ、三日が記念祭ですから、どうぞそろうてご参拝のおかげを頂きたい。10日は御本部の報徳祭。これも、もう、今は申し込んで、申し込みは閉め切ってございますが、後にみなさんが言うてくる。実に惜しいことです。お参りするなら、もう早うから言うておけば、その、申し込みが出けたんですけれども。まあ、後はみんなお断りしなければならん、というようなことになっております。
 むろん、16日はここの報徳祭が仕えられます。いわゆる、冬の御大祭です。二代金光様、三代金光様の御大祭とも申します。それから、いわば暮れの除夜祭、そして、元旦祭ということに、まあ、なって行くわけですけれども、今月はまあ、いよいよ、けただましい月に入ります。ね。ですからもう、本当に私どもは、まあ、思います。平穏無事な時がいかにも良いようにありますけれども、それでは信心が進歩しません。 上野先生が若先生の御取次を頂いて、あるどうにも出けない問題を御取次頂いた時に、古い手帳を開いてみた。そこにあったものは、それによって磨けということであった。もう、一遍でおかげを頂いた。しかも、そういうおかげを頂かせて頂くということは、いつもが寝ても覚めても金光様。
 東京のお父さんが、もう、何を見ても聞いても、どこを歩いても寿司と関連したことを言われる。私が、ならお芝居を見てもテレビを見ても、ね、相撲を見ておっても、ね、はあ、今日のお相撲は面白かったというその次には、信心が出て来る。というように、私どもはそれにいつもかけておるということが、私どもは一生懸命(だと言うのです?な時です?)。
 一生命をかけるということは、懸けるということは、そういうことではなかろうか。ね。プロはずいぶん多いのである、玄人もたくさんおりますけれども、ね、東京のお父さんほどしに寿司のことを考え続けておられる人はなかろう。家の父親ぐらい、家の親先生ぐらい神様のことをいつも心の中に頂き続けておるという人はあるまい。こういうものが、私どもに欠けておるのではなかろうかと、まっ、上野先生に御理解をしたということでございます。ね。
 どうでも一つ皆さん、寝ても覚めても金光様。そこに、今言われるところの合楽の心行であります。ね。心行が伴うて参ります時に、ちょうど、この元旦に、ね、今年の合楽の信心は、この心行に懸ける。ね。あっ、ご無礼。心行じゃない、大払い信行に懸ける。そこで皆さんに、その大払い信行をお勧めする。ね。
 それは今まで、なるほど十巻もニ十巻も、それこそ五十巻も大払いをあげて来たけれども、それはどうでも何かおかげを受けなければならない時に、ね、一生懸命大払い信行をあげて、おかげを願うために大払い信行であったけれども。それは、言うならば神様を拝み倒して頂くようなおかげであるということである。
 そうではない、もう無条件。お道の信心をさせて頂く者なら、当然のこととして、当たり前なこととして、神様に真心の大払い信行を奉るということは、ね、ちょうど栄養失調になっておる者に牛乳を与え、食べ物を与えるようなものだ。それぐらい、そのことを実行しておられる人達の宅の神様の前には、それこそ、もう恐ろしいようなお勇みが起こっておるということである。
 神様が、いわゆるデレッとしたごたる神様がパーッと元気になんなさったということです。ね。大払い信行というのは、そのように素晴らしいことなんです。そして私どもが、一年間いわばそれを続けて来た。または、それをしたりしなかったりという人もありましょう。けれども、もうここ一月にです、合楽の信心の締めくくりをです、ね、中はぐらぐらだったけれども、この最後の12月だけは本気で大払い信行に取り組ませて頂こうということになって来る時にです、神様が生き生きしてみえると、だけ思うておったところが、我なるところの神が生き生きとして来ることに、この頃皆さんが驚いておりますね。
 大払い信行を続けておる人達が、神様も生き生きしてみえる。御神前に座る度にお勇みがある。もう、それこそ身が縮むような思いがすると、神様が勢いづいて下さるだけではなくて、我が自分の心なる神様も、また生き生きとしてみえておることに気付いてきたと言うのです。ね。
 これが有り難いです。それが、おかげを頂くいわば事になり、さっきから申します、ね、日と光の音律である。神様との間に生まれて来るひとつのリズムが心の中に奏でられる。そのリズムが調和する、神様のお心と一緒になる。ね。そういう世界を願っての信心であるならば、間違いがない、狂いがない。ね。おかげを頂いた時には、ニコニコ出ない時にはそうでない。
 そこで私は思うんですけれども、痛いのあって痒いあっても良いのである。もう、それこそ痒い思いをしておらなければね、あれをかいてもらう時の気持ちの良さというものは分からんのです。なら、私どもは、この世は苦の世苦の世界だと言うのですから、どんなにおかげを頂いておると言うてもです、なるほど上野先生が昨日心に感じたように、なるほど問題というものはないのだ、と。あるのは、自分の迷いなんだ。そのあるならば、その問題を通して磨くことになれば、そのことによっておかげを頂いた。
 痒いところがあるから、痛いところがあるから、一段と信心を進めて行くことが出けるということになるのです。ね。ですから、そういう痛い痒いの中にです、喜びを分からせてもらい、信心頂いておる者の有り難いでなからなければ、頂けない有り難いものを頂き続けて行くというのに信心がある。今月、今も申しますように、次々と教会行事が続いております。ね。
 私どもの信心、私どもの信心心行をです、ね、どのくらいに出けておるかを試してみる意味合いにおいても、この教会行事に一つ取り組んでみると分かります。ね。心行はそれこそ広いのです。暑い寒いを言うてはならん。ね。不平不足を言うてはならん、それが心行なんです。だから、それが言わんで済む。
 それよりは、むしろお礼を言わしてもらわなければおられない、心の状態が開けて来なければならん。昨日は、御祈念の後、いつものように月末御礼信話会です。ちょうど、昨日は32~33名の方がこう集まっておりましたから、ここに輪をかいて、これはもう、31日の独特の信話会の時です。ね。親様を前にして、どういう信心をさせてもろうたら、親様が喜んで下さるだろうかと言うて、まあ、座談会が開かれるわけです。昨日、末永先生が司会をして、ずっとこっちから、半分ほど、まあ、いつもは11時までですけども、11時半までにしようと言うて、一人ひとりが、もう本当に尊い発表をなさいました。
 段々進んで参りますうちに、私の方の家内が座っておるところへ回ったところが、ちょうど11時半でした。家内がもう、ホッとしたような顔をした、ああ、どん言わんでよかと思うちから。はっは。したら、その司会をした末永先生が、何か一言で良いですから、一言どうぞという訳であります。
 したら、家内がこう申しました。私は本当に感激しました。「もう、これほどしのおかげを頂いておるのですから、ただ親先生の足手まといにならないように、お邪魔にならないように、ということばっかりを考えております」と申しておりました。
 もう、私はそれを聞いて、頂いてから、なるほど、この人が話をすることが出けないとか、嫌いだとかと言うけれども、内容にはそういう、それこそ滾るようなものを持っておるんだな、ということでございます。本当に、ね、こういうおかげを頂いておるのですから、どうこうと言うことはない。ただ、親先生の信心のお邪魔にならんように、と言うのであります。お互いがお道の信心させて頂いて、おかげ頂いた時には有り難い。でない時には、それこそ、ああいうことで良いだろうかというような態度やら心の状態になってしまうということは、そのまま、神様のお働きに、金光大神御取次の道に私どもが、ね、参画させてもろうておりながらです、邪魔になっておるようなことはないだろうか。ね。
 私どもが、お道の信者信奉者としてです、ね、本当に信心させて頂いて、いわゆる、神様の働き。合楽の示現活動に参画するということは、神様が不思議な不思議な働きを示し現して下さるということなん。その示し現して下さる不思議な不思議な働きのお邪魔をしておるようなことはなかろうか。
 これを思い続けることも、やはり心行であるということでございます。いよいよ心行に、同時に今月、後一月残されておるところの大払い信行。合楽の今年の願いは、大払い信行に懸けるとまで私が申しましたのですから、これにいよいよ懸けて、神様も生き生きとしてみえる。
 私の心もなおさら生き生きとして来るというようなおかげを頂いて、今年を締めくくりたいと思うですね。どうぞ、12月の3日の親教会開教70年の記念大祭には、皆で一つご参拝のおかげを頂きたいと思います。よろしゅうお願い致します。